レースイベント仕掛け人 YKOとは?…②

お待たせしました。今回の気になるあの人は「丸山由紀夫さん」の第2弾をお届します~。

ガンガンにトレーニングしていた頃の名残メディシンボールで、現在も適宜トレーニングしているそう

 

丸山さん 前回の記事はこちらから

 

 

すっかり自転車小僧と化していた中学時代を経て、高校生なってからはどんな感じだったのでしょう?

 

高校へはいわゆるスポーツ推薦で陸上をやるということで入学したんです。

なので、すぐに陸上部へ入ったのですが、新人戦と自転車のレースとが重なってしまい、レースに出たかった僕は「新人戦には出られません」と言っちゃったんです。

当然問題になり、結局入部してわずか2日で

「自転車ができないなら退部します」と‥‥。

 

スポーツ推薦だったのに、部活動を止めて大丈夫だったのですか?

 

 

もちろんそんな我儘がスンナリ認めてもらえるわけはなく、

母も学校に呼ばれたり、今思うと周囲の方たちにも相当迷惑をかけたと思います。

そんな中、母が「どうしても自転車がやりたいならやりなさい」と味方をしてくれ、

学校にも随分と頭を下げてくれたようです。

おかげで退学にもならず、陸上部を退部して自転車競技に参加することを認めともらうことができました。

 

では、そこで感謝の気持ちから上を目指すようになったのですね。

 

それがそうでもなくて。ありがたみが身に染みてなかったというか、

周りが見えてなかったというか。

当時はJシリーズに参加していて、金銭的なこともあって近場のレースに出場していたのですが、やはり走れるだけで満足しているところがありました。

それが高校2年生の時に大学生の先輩から本格的なMTBを中古で買うことができ、

それをきっかけに自分でも「オッ」と思うくらい戦績が伸びて1番上の競技クラスに上がれたんです。

 

 

いい自転車を得て、実力が開花したわけですね。ではそこからはトントン拍子?

 

 

なわけないですよ(笑)。「国内トップクラスで走れる俺ってすごいじゃん」という気持ちもありましたが、実は、スゴイビビリで‥。だから、同年代で怪我とか怖がらずにガンガン攻められる仲間がグングン上手く、速くなっていく中で、上達もタイムも思うようにならず「俺って才能ないのかな」と悩んだことも1度や2度じゃなかったです。でも、やっぱり負けたくないって気持ちがあったから、とにかく練習して、ビビリの部分を量でカバーしてなんとかかんとか戦っていました。

さらに、高校3年生くらいになると、将来の進路をどうするかという悩みも出てきました。

家のためには就職した方が良かったのでしょうが、自転車も諦められない…。

ハッキリ言って自転車に関心がいっていたので、就職して働きたくなかったという・・・。

そんな時、社会人になってからの自転車競技者時代を支えてくれる企業さんとの出会いがあり、「就職しないなら車両等ギアサポートをするから競技を続けてみないか」というお話をいただき、棚ボタ気分でそのお申し出に乗らせてもらいました。

 

それはラッキーでしたね。

 

そういう意味では、僕は本当に周りの方に助けられたと思います。

 

 

では、そこからはトップ選手への道を順調に登り始めたわけですね。

 

だったら良かったんですが、最初の3年間くらいは本当に鳴かず飛ばず。

もぉ、ダメなフリーターと言われるのが相応しいような状態でした。

しかも、4年目を迎える頃、自分では「練習」って思っていましたが、客観的にみたら遊びの延長のような練習中に、手首の粉砕骨折という大怪我をしてしまって。

さらに、そのタイミングで母まで病気に。

能天気な僕も、さすがにその時は自転車を止めて働き、母や家族を支えようという気持ちになりました。

ところが、母は僕の決心を喜ばず「私の病気のために自転車を止められたら、かえって悔いが残る。お前は自転車を続けなさい」と、逆にハッパをかけて来たんです。

それからですね。本当の意味で僕が自転車競技と向き合ったのは。

「自分は自転車で生活するんだ、家族を養えるくらい自転車で稼ぐんだ」。そんな風に思ってトレーニングも寝る間を惜しんでやるようになりました。

結局怪我で1年間棒に振ってしまったのですが、復帰後は1ケタ台のゼッケンの選手に混じって100番台の自分が、成績上位者が発表される電光表示板に載るように。

その時、契約スポンサーの方が常々言ってくれていた「レースの成績は才能じゃない。レースの結果は努力した者の順なんだ」という言葉がようやく理解でき「自分もやればできるんだ」と、自分を信じられるようになりました。
その後も優勝を目指して無駄なまでにトレーニングに打ち込み、自転車だけで生計を立てていけるトップチームに手が届きそうという手応えができた頃、当のトップチームが解散してしまったんです。
ショックでした。

その時点で、最高位で2位までしか上がれなかったこともあり、

「これだけやってトップを取れなかったんだから、もぉ止めよう」と。

どこか、目標を喪失してしまったような状態だったこともあり、

契約ライダーとして走り出して6年、

競技の世界からは自分でも意外に思うくらいスパッと遠ざかりました。

 

契約ライダーとして一番戦績の良かった2005,06当時のヘルメット。
YUKIOのYKOを取ってトレードマークにしていた。

 

そこで止められたことを後悔したことはありませんか。

 

いま思うと、考え方が幼なかったと言えなくもないかと思いますが、

自分が尊敬していた先輩の中にも年齢を区切り、

それまでに優勝できなければ競技は止めると有言実行した方がいて、

そういう生き方に共感していたので、後悔よりスッキリした思いの方が強かったですね。

 

 

やはり、人に歴史あり、、、です。

今回の丸山さんのお話はここまで。次回は、その後の人生、自転車イベントの仕掛け人としての本音に迫ります~。

 

続きはこちらから

……………………………………………………………………………………

【取材MEMO】

1982年3月16日 生まれ
三重県在住
所属:TEAM  ML OPEN/Crifford

現在はレースの第一線からは退き、自転車関係の仕事をしつつ、レースイベントのプロデュースや月刊YMOの配信など、自転車を愛する人々のサポートと自転車ファンづくりにも力を注いでいる。

◎主な戦績
05 ジャパンシリーズDH 第5戦第2位、
06 ジャパンシリーズランキング第4位、同年ナショナルポイントランキング第5位

他、DVD“OUTWARDBOUND3 ” にも登場


コメントは受け付けていません。